ただのサラリーマンが大富豪を目指すブログ

楽して稼ぐ 人生の攻略法【検索】

【成功哲学】夢や目標を叶えられる人の習慣「自分に責任が持てる」

はいどうもお久しぶりです。

前回に引き続き「夢や目標を叶えられる人の習慣」について書いていきます。

前回の記事はこちら

 

narukami-biz.hatenablog.com

 

 

はじめに

今回の題である、自分の行動に責任を持つことができる人とはどういう人でしょうか?

人はみな、生きているうえで自分の責任で行動しているのでは?と思うかもしれませんね。

話が長くなり、だいぶ乱文になってしまったので、結論から先に言いますがいわゆる「PDCA」的な話になります。

 

人間の脳と心理学

すべての人に共通することですが、人は自分がやってしまった間違いに対して、なかなか事実を受け入れることができません。

もしかしたら心当たりがあるかもしれませんが、無意識のうちに自分自身を正当化するために周りや環境のせいにしてしまう特徴があります。

認知バイアスの一種ですが、いわゆる脳のバグといわれるものですね。

 

もちろん人それぞれの視点や、パラダイムがあることは前提だと思います。

ただ、自分でも無意識のうちに自己防衛本能が働き、自分に対する非を認められなくなっているものです。

ここで重要なのは、自分がそうしようとしているわけではなく、人間の本能的な部分により、無意識のうちに外的要因に理由を求めてしまうということです。

 

いわゆる確証バイアスというものであり、自分が信じた事象に対する情報を、選択的に集めてしまう。

言い換えるのならばできる限り「自分が正しい証拠を集めてしまう」とでも言うべきでしょうか。

 

自分が信じているものしか見えない

自分が「信じているものしか見えない」 という状態ですね。

今身の回りの匂いや音に意識を向けてみてください。

今突然生まれたわけではなく、それはあなたが意識をする前から存在していたものですね。

その事象を意識するまでは見えなく、意識した瞬間に見える、そういうイメージです。

 

先ほどの話に戻りますが、きっとどんな事象であろうと起きてしまった間違いというものには多くの原因があるのだと思います。

しかしながら、人間の傾向としましては、あくまでその一端にしかなりえない外的要因にばかりバイアスを掛けて信じ込んでしまいます。

 

複数の原因がある場合に、優先的に外的要因にのみ目がいき、その部分だけを追求してしまったり。

実際のところ周りから見た場合に、責任の所在は内的要因に多いのにもかかわらず、外的要因ばかりをあげる人って身の回りにもいますよね?

自覚があるのかないのか周りの人間や、環境を原因として挙げるけれども、自分の原因については挙げない等々・・・。

 

ヒューマンエラーを勉強されたことがある方にはおなじみかと思いますが、自分の主観だけでなく第三者を交えた「なぜなぜ分析」などをすると色々な要因を平等に見ることができますよね。

 

それを生存本能に基づき苦痛を防ぐということは、生きるうえでとても自然なことだと思います。

自分の間違いを認めるということはとても苦痛を伴うことですよね。

 

セルフハンディキャッピング

たとえば良くあるお話ですが、テスト前になると突然掃除がしたくなる現象、皆様も似たような経験があるのではないでしょうか?

これについては自分ではまったく意識していないのにもかかわらず、意識が勝手にそちらに気を持っていってしまう場合もあるかと思います。

これは先出しのいいわけであり、失敗したときの言い訳をあらかじめ作っておく無意識下の防衛本能だともいえますね。

 

自分がその立場にいるときに、自分を現在の位置からできる限り客観的に見ることができますか?

あくまで一例ですが、上記の例に当てはめて見ますと、自分自身の主観では「急に部屋が汚いのが気になって勉強に集中できないから、掃除をしていたら勉強ができなかった」となるのかなと思います。

逆に客観的な視点から見てみると「テストができない言い訳をするため、勉強をしないために掃除をする選択をした」ともいえますね。

他にもさまざまな視点から色々な意見があるかとは思います。

 

まずは認知をするところから

メタ認知という言葉をご存知でしょうか?

物事をより高次的な見方をすることで、自分自身を客観視することです。

説明が難しくなりますが、もう一人のフラットな見方をする自分を立てて、自分を見返す行為とでも言えば良いでしょうか。

 

最初は自分した行動を仮に他人がしていた場合に、自分がどう感じるかと当てはめてみることも良いでしょう。

そうした場合「あいつはまた掃除を言い訳に勉強してなかったって言っている」とか「掃除してたんだなーそれじゃあテストできないんじゃないかなー」とかさまざまな意見が出てくるかと思います。

その、自分が他人を見るときの評価を自分自身に当てはめる見方ですね。

 

受け入れがたいことは多いかと思いますので、最初は物事に善悪の判断をつけないという状態を作ることが大切かと思います。

そこにあることが当たり前の事象に対して、善悪の判断をしているのは人間の自分ですよね。

あくまでそこにただあるんだなと捉えることです。

ルフレッド・アドラーの言う「自分の条件付けの世界で生きている」と同じですね。

 

できる限り物事を高次的でフラットに捉えて、あらゆる要素に目を向けるようになるとさまざまな成功アイデアが見えてくるかと思います。

 

事象に対する反応と選択

事象と反応の間には選択の余地があります。

今あなたが現状の状態であることはあなたが選択をした結果です。

誰もあなたにそんなことを強要したわけではないのに、どうしてあなたはいつもそんなに不満そうなのですか?

無意識のうちに人や環境の様な外的要因に責任を押し付けてしまうことはよくあります。

でも本当は絶対にその見えない誰かの言うとおりにする必要はあったのでしょうか?

それはあなたが見えない誰かの言うとおりにするという「選択をした」だけではないでしょうか?

人は「自分の信じたものしか見えなくなる」というといいますが、本当にそれはどこかの誰かがあなたに強要したことなのですか?

少し話がそれましたが、人間の脳には「防衛本能」問いも言われるような機能が備わっているものです。

 

自分に責任が持てる

自分に責任が持てる人の心構え

心構えの部分ではありますが、どんな事象においても自分の身の回りでおきることには、自分に責任があると捉えるとより周りの物事に対して問題意識がわくでしょう。

仮にですが、「何か危ない事象を見かけた際に、その人が案の定事故を起こしてしまった」。

あーあやっちゃったと思うかもしれませんが、見方を変えればそれをあなたが気づいたタイミングで防ぐことができたのかもしれません。

 

その人が防ぐことができなかった」要素もあれば、「あなたがそれを止めてあげられなかった」という要素もありますね。

さらに掘り下げるのならば、今までそれとなくなんとなくで見過ごしていた身の回りの事象たち。

もしそれに気づくことができたのならば、気づいたことに対して何かしらの働きかけができていたのならば、嫌に思うような結果を防ぐことができたのかもしれません。

 

そのような小さな働きかけを持つことができる状態にあって、やらなかったこと、できなかったことたくさんあるかと思います。

そんな些細なことであっても身の回りの出来事は自分の責任であり、何でも改善していけるのならば悪いことはより良い事に、次におきたときには対処できるように、大きな人間になれると思いませんか?

 

他人の行動にも責任が持てる

たとえばですが、「自分が責任を取るから、好きにやって良いよ」といってくれるような人にはついていきたくなりませんか?

自分がやったことでも、周りの責任にする人」と「自分がやっていないことでも、責任を肩代わりしてくれる人」あなたならどちらの人を信頼できて、どちらの人についていきたいと思いますか?

そんな人になれたらということですね。

 

日常の些細な部分から自分を良くしていける、人の振り見て我が振り直すの上位互換と捉えていただければいいかと思います。

 

まとめ

成功者は自分のどんなに愚かな失敗でも「受け入れ」そして「改善」していく力を持っています。

前述した様に、どのような事象も自分が起こした自体であると捉えることができるため、それを毎日少しでも良くしていくことができるのですね。

 

本能的に考えるととても苦痛を感じることかもしれませんが、すべての問題を解決するために必要で共通の事象といえます。

私の好きな言葉に、「チャンスはピンチの顔をしてやってくる」という言葉があります。

失敗や嫌な事態はそのままでは失敗したり嫌な事態そのままです。

ただ、それを乗り越えるために今までなかった発想を生み出したり、試行錯誤してもがく過程で新しい自分を生み出す切っ掛けになるからそう言われるのかもしれませんね。

 

 乱文となりましたが現場からは以上です。